2004年 5月 2日 (日)更新

感想文

直心会に参加して (AT)
徳源寺に着き、歩を進めるうち、静けさを感じる。境内が整然としているので心地よさも感じる。
直心会は最近参加者が少ないので禅堂で坐禅をしている。禅堂での坐禅は最高です。2時間が非常に短く思えます。こうして坐禅をさせて頂き、終わったあと、すがすがしい気持ちになり、良かったといつも感じます。
また、私自身を顧みる時、坐がしっかりしているのか、真に落ち着きがあるのか、徳源寺で学んできた事を生かしているのかと反省した時、歯がゆさも感じています。以上の事を思いつつ続けさせて頂くところです。
平成16年4月17日

徳源寺坐禅会に参加して( K・U)

2004年4月14日
毎週土曜日の直心会では、我々一般の居士大姉も、修行中の雲水さん方と一緒に、禅堂で座禅をさせて頂く事ができ、大変有難く感謝致しております。
先輩の方々から「一日一度は静かに坐って呼吸と心を整えましょう」と言われますが、毎日がバタバタとあっという間に過ぎていってしまいます。普段なかなか得られない、環境の整った週末の2時間の坐禅は、静寂の中で心身が洗われるような気が致します。
この徳源寺での貴重な時間と体験を、私は日常生活の中に生かし、落ち着きのない自分自身を見つめ直す事ができます。又老師様の法話を拝聴することも出来、人生のあるべき道を示されて反省もし、又勇気を与えられ、仏法の深い味わいも少しずつ解って来たような気が致します。これからも長く続けてゆきたいと思います。

見星会( K・U)
見星会に参加するようになり、早朝の星の美しさと清涼な空気に至福の味わいを知るようになりました。朝の坐禅は鳥たちの声と共に禅堂内に朝日が差し込み、静寂の中で身の引き締まる思いと開放感に、自分が生かされているという言い難い喜びを感じます。
夜更かし朝寝坊の私が、このすがすがしさと「早起きは三文の得」という言葉を実感出来るようになるのには、ちょっと努力もいりましたが・・。なんと言っても、堂内で読経する白隠禅師坐禅和讃や大燈国師遺誠、無相大師遺誠の言葉が心に滲みて有難く、涙こぼれそうになる時があります。
禅堂前門の時を知らせる木板が雲水さんに打ち鳴らされ、「生死事大・無常迅速・時不待人・謹忽放逸」の言葉が響いてきます。
法縁に心より感謝!です。


心の洗濯(40歳代男性)
日本での自殺者は年間3万人を超え、心身症等での自殺予備軍も多くいて、病める日本列島という感がある。自分自身も職場、家庭生活で怒ったり、喜んだり、悲しんだり、悩んだり、不安になったりして週末には心身とも疲れてしまうことがある。
そんななかで、気持ちの落ち着きを体験できる坐禅は貴重な時間である。無念無想という境地には程遠いが、1週間の心の洗濯をしてくれている。
よく整えられた自己で再び日常生活に臨むことは、自分自身だけではなく、他の人にも良いことを与えてくれると信じる。そして、坐禅.般若心経読誦のあとに、静かに坐れる場を与えて頂いた縁に深く感謝して頭を下げるのである。

直心会にて坐禅をしてみました(匿名希望)
私が徳源寺を知ったのは、一般人を対象にして毎年夏休みに一泊二日でおこなわれる坐禅会に子供と共に参加したのがきっかけでした。
写経、坐禅、感想文、食事等々結構忙しい内容ですが、何か心に引っかかるものがあり、「悟り」とは何かと言う疑問があったので、機会があればと坐禅会に入ろうと思っていましたが、非常に厳しそうなのでなかなか踏み切るのに勇気がいりましたが、しかしだめならすぐやめればと思い参加することにしました。
 まだ初めて一年にもなりませんが、関節が硬いのでまだきちんと坐っていることが出来ませんが、何か善い坐り方はないかといろいろ工夫をしていますが、股関節が痛くなるので閉口しています。
 次に坐っている最中に頭の中をどのように整理したものかと、坐禅の入門書を読み、数を数える「数息観」とか「無」の一字のみに集中するとか書いてあるので試していますが、次から次に仕事のことや人間関係のこと、など色々浮かんできます先輩諸氏に話を伺いそのような雑念を相手にしないようにと心がけておりますが、脚が痛くなってきたりしますと一体此処で何をしているのだろうと思うことがあります。しかしたまには何かは分かりませんが「集中出来たな。うまく坐れた感じがする」という気になる日もあるので、お寺の入り口を入るときは「今日はやるぞ」と、思って入るのですか、悲しいことに夏の花火と同じでその時だけやる気になるのですが、気持ちが尻すぼみになることがままあります。
 摂心には、二度参加して雲水さんに大変迷惑をかけました。それは作法とか禅堂の約束事が分からないので先輩諸氏のを見よう見まねで夢中でやっているものですから、手元が全く抜けているので端から見たら、全く珍妙で目障りだろうと思います。食事の時は時間もなく、隣の人のやり方を必死に見ているので、全く食べた気がしませんでした。特に思い出すのは、自分で持鉢に注ぐとき、味噌汁の具が、葉の大きなものだったのでお玉にからみつき、注ぐと持鉢の外に飛び出しそうなので、桶の中でかき回して葉をふりほどくのに必死になったのは、今思い出しても冷や汗がでます。しかし一日中坐禅が出来るのでやっているときは結構苦しいときもありましたが、充実感あり格別なものがありました。
 最後に時々老師の「ダンマパダ」の提唱を聞く機会がありますが時節の話題も入り、分かりやすいと感じておりますが、多分本当は全然分かっていないのだろうと思います。しかし今この時、このように分からないなりに坐禅に参加できるのは非常に有り難い「縁」だと思いますし、自分にとって大切な時間だと感じております。

休みなら帰ります
(梅村 浩)

私は今年還暦を迎えるが、坐禅を始めてから一年半の初心者である。坐禅の会といえ
ば、中高年の方が中心かと思っていたが、そうではない。直心会には若い人も多いし、仏教とは無縁の文化出身の外国人も何人かいる。門を叩く若い女性は多いが、惜しいことに定着率がいま一つである。初心者の私が筆を取る必要は壮いと思われるが、初心者の感想が、これから参禅したいと考えておられる方とって何かの参考になればと思い体験を書かせて頂く。

人はさまざまな煩わしい問題を抱えて生きている。家庭、職場での問題、健康上の不安、過酷な運命など挙げれば限りがない。

「私には嫌なものが無い。」

というような境地に達するのは無理にしても、どのような境遇にあっても、運命に翻弄されることなく、心の平和を保ち、自分を見失うことなく自由に生きていきたいと誰しも願うのは当然である。しかしこれは難しい問題であって、古今東西のあらゆる宗教、哲学がこの問題に取り組んできた。

仏教も当然答えを提示している。禅寺を訪れると玄関に照顧脚下(しょうこきゃっか)、あるいは看脚下(かんきやっか)と書いた札が掛かっている。足元を見ろということである。心の平和、自由な自分を他所に求めるのをやめろということであろう。心の平和、自由は求めることよって得られるものではなく、既にそこにあるものだという意味であろう。不眠症の人が、眠ろうとすればますます眠れなくなるように、これらを求めれば求める程目的から外れていくということであろう。そうかといって何もしなければそれで解決するのかといえばそうではない。理屈のうえで看脚下を理解するのは難しくないが、頭で解っても何の役にも立たない。看脚下の考えにしたがって生きなければならない。ここが最も難しいところである。
先日次のような体験をした。直心会は毎週土曜日に開かれているが、何かの都合で休みになる場合は、坐禅の直後に来週は休みですという連絡がある。ところが極めてまれであるが、この連絡を忘れてしまうことがある。後で気が付いてもすべての人に連絡するのは不可能である。名簿に名前がのっている人の数が結構多い。最近よく来ている人に電話するということになるが、それでも数十人になり大変な手間である。世話をして下さっている人からすれば、忙しいのにわざわざ遠くから来て頂いたのに、吟日は休みです。

連絡を忘れていました。」ではすまないということになる。そこで、休みだと知らずに来て、寺に着いてから「今目は休みです。」と言われたらどんな気がするかという話になった。不快に思うという多数の声のなかで、r私は休みなら帰ります。」と静かに言う人がいた。一見単純のように思えるが、これはとても重みのある発言である。他に左右されない自由な境地を生きているからこそ、このように行動できるのであろう。見習いたいものである。

感想  (某)
坐禅について話すことは難しく坐禅は言葉がほとんど無い世界です。
しかし坐禅について話すならばまず初めに言いたいことは、坐禅はとても独特な音色やリズムを持っているということです。
私にとって坐禅は、静寂ではなく不安もなく安らぎもなくそして活動的でもありません。
坐禅は努力でありそれと同時にその褒美でもあります。そして坐禅をすることで精神の一体感を味わうことができます。
時には肉体、五官、思考力、外から受ける知覚は集中力を阻むものとなります。
それは行儀の悪いわがままな子供が神経質な大人を騒ぎたて邪魔しているかのようです。大人がこの子供たちを自分の子供だと認識すればそのまま遊ばせ気を散らされることもないでしょう。しかし少し近視眼的でぼんやりしていてこの大人にとってトラックのエンジンやサイレンの音やメム, ム, 無!モと庭で吠える犬、この全が原因で坐禅が出来ないといういい口実となります。その他の障害は薄明かりをいいことに気がつかないうち睡魔に襲われていることです。
そしてこの眠りも坐禅をできなくする絶好のチャンスと言えるでしょう。
しかしながら坐禅は容易なことのように思われています。坐禅をすることによって自分の本質が現れるチャンスを与えてくれると思います。
これまでに挙げたことを一つの言葉でいうならば「存在」と言えると思います。
雲水さん達と坐禅会の方々と一緒に座ることはまるで母親が体内に子供を身ごもったようにお互いに自分自身を受け入れているかのようです。
この時感じるのは明らかに一体感だと思います。特にこれを感じることができるのは摂心の際です。
この感覚は抽解の間に列をなして歩く経行の時、完璧ではないがお茶が入った湯呑み茶碗を波を描くよう持ち上げる手、音程のよいお経を唱える時、「寝るな!」という厳しい声が静けさの中の禅堂を走るときです。
一つの魂となった禅堂自信が一体となった私達一人一人を養い、救い、助け目の前にあるが見ることが出来ない真の本質そのものを再発見させてくれるのではないかと思います。
このような一体感が坐禅自身を養い、自分自身を救い、助け
私達の目の前にあるが見ることが出来ない真の本質そのものを再発見させてくれるのではないかと思います。
(流歌)ルカ・バンニ

私のとっての禅(河西 英彰)
ここ十五年の間の私にとって禅は唯一の関心事となっており、これなくしては今の自分は全く考えられないものとなっています。
今まで本を読むという行為を通して何とか理解しようとして来ました。本には結局のところ、坐って冷暖自知するしかないと書かれているにもかかわらずです。ただ坐るという行為を避けてきました。己事究明といいつつ自分と向き合う事が恐ろしかったのかもしれません。
ようやく二年前愛知県に居を移したのを機に、蘇山禅師開山の徳源寺へ出入りさせてもらえるようになりました。禅師ゆかりの寺で、しかも禅堂で雲水さんと坐らせてもらえる事が嬉しく有難く感じました。
当初は半跏で坐っても一しゅ(約三十分)が長く、よく眠気に悩まされ、禅堂で眠くなる自分がとても恥ずかしく思われました。呼吸も数息観(息を数えて心を整える方法)やったり、呼吸に気づくようにしてみたり、出入りの息を緩やかにしてみたり、腹式呼吸に重きをおいてみたりと、いろいろ試行してみましたが、これというものがわからず呼吸の難しさを身をもって思い知らされました坐中ですらこのような状態ですので「せぬ時の坐禅」など云うに及ばずでいます。しかしながら大接心では、雲水さんの生活を垣間見る事ができ、とても物事が合理的に物事が進められていることや、食物への感謝、生飯(数粒のお供えのご飯)をとるという生ける者への思いやりなど、坐禅以外で学ばせて頂いたと思っています。とても物覚えの悪い私は、接心中の坐禅は、次の合図は何をするのだったのかとか、経行(坐禅の間に禅堂の周りを歩き、脚の疲れを除く)が出来るよう足がしびれないように気をつけようとか、食事の作法を思い返してみたりと、余計な事に気を取られ、余りしっかり坐れないという有り様です。それでも夜坐(就寝後自主的に一人で坐禅すること)や臘八(12月1日〜8日早朝まで眠らず坐禅をする修行)は森厳なる雰囲気とも相俟って良く坐れるように思います。
半年ほど前にようやく老大師(道場の指導者)から公案(禅の問題)を頂き、何とか見解(解答)を出そうと毎日坐るようになりました。
とはいえ、組んでいる手が大きくなったり、手足が無くなったりする程度のことしかなく、努力不足と機根の悪さに自己嫌悪に陥りつつ、答えなどそこにないとわかっていても、無門関(禅のテキスト)を繙いてみたり、古人の刻苦勉励に思いを巡らせて又坐るという毎日です。
山上山ありだということや、時人を待たずということを思い起こす時、初関(最初の公案)も透過(解決したと老師に認められる事)できないでいる自分の情けなさに落込む事頻りですが、生涯を己事究明に捧げるということになってしまい、自らも覚悟している以上、いかほど歩みが遅かろうと、一歩ずつ精進するしかないと決意しています。
そしてせっかくの機会を無駄にしないためにも出来る限り参禅しなければならぬと思います。