当山勧請開山卓洲胡僊禅師

漁巣軒と号した。漁巣軒は總見寺歴代住職の軒号である。
15才、名古屋大須総見寺の祥鳳和尚について得度。20才、白林寺月鑑和尚より「関東の峩山に従って修行せよ」とすすめられ、 横浜市永田宝林寺の峩山に参じた。寛政8年(1796)2月総見寺に住し、文化10年(1813)10月花園妙心寺に出世し、朝廷より紫衣を賜った。 文政3年(1820)秋、総見寺僧堂を改造し、11月30日落慶法要を行い、天保2年(1831)夏、開基織田信長公250年遠忌に大会を修行した。 翌年(1832)4月総見寺を退き、山内東林院に隠棲した。
 天保4年(1833)8月28日遷化。師の法を嗣ぐもの、春応、月珊、良忠、海山、妙喜、石応、蘇山、蓬州、海州、宙州等があり、 後世この一派を卓州下とよぶ。同年11月特に勅して大道円鑑禅師の謚号を賜う。
塔所は平和公園総見寺墓地にあり、聖寿塔という。
徳源僧堂の行事規矩は卓洲禅師の時代の規矩に準じている。



当山開山蘇山玄喬禅師

鵞王軒と称した。肥後熊本の出身である。
寛政11年(1799)熊本に生まれた。15才のとき父を失い、熊本見性寺啓邦和尚について得度した。19才、総見寺卓州禅師の室に投じた。参ずること18年、その蘊奥を尽くす。
 卓州寂後、熊本見性寺に住し、嘉永4年(1851)の秋、詔を奉じて花園妙心寺に住した。 また京都府八幡市円福僧堂に移り、安政6年(1859)妙心寺開山500年遠諱に臨済録を提唱する。
 文久2年(1863)尾張徳川慶勝公、師の高風を聞いて、徳源寺に請じて僧堂開創の祖とし、江湖道場を開創した。
 慶応元年(1865)朝廷より神機妙用禅師の号を賜う。2年(1866)秋、再び妙心寺に住した。
明治元年(1868)臘八大接心に槐安国語を講じ、鶏鳴を終え隠寮に帰る。翌日より不調を訴え、日一日と病重くなる。 侍者が遺偈を乞うと、叱責して、「偈を求めて何をかなすと」跪坐したまま従容として四句の願文を唱え、天暁のころ端座して入寂す。12月15日69歳であった。 この時、遷化に立ち会った、兄弟弟子の蓬州老師が書き写した、四弘誓願文を遺偈としている。全身を徳源寺祖師堂の自像の下に葬る。
 嗣法の者、惟庵、羅山、樵禅、鰲巓、伽山、保岳、南隠の諸老あり。塔を称して鵞王塔と言う。 羅山は久留米の梅林僧堂へ、伽山は八幡市の円福僧堂に、鰲巓は徳源僧堂に各々法幢を立てて宗旨を宣揚した。


当山二世鰲巓道契禅師(関 鰲巓)

師諱は道契、号は鰲巓、軒号を瑞応と称した。名古屋市熱田の出身である。
10才、市内飯田町禅隆寺模林について得度。16才、熊本見性寺の蘇山老師に参じた。
18年修行の後、大分県臼杵の多福寺に住し、長養すること20余年、明治元年、(1868)蘇山老師の遺命により、徳源寺に移り雲衲を接得した。
 明治4年(1871)京都本山妙心寺住持となり、同5年(1872)初代妙心寺派管長に就任した。
同20年(1886)春尊宿雲衲800余名を懇請して末期の大法会を営み。続いて、信徒のために授戒会を開筵した。 戒徒2400余名と記録に残る。
同23年(1890)冬臘八大接心を修する日、居士の伊藤玄機、水野門水、井上浮木、河村鉄関、矢野宗雄らに傘寿の祝賀会を急ぐよう命じた。 この時、「祝賀会が終わったら、間もなく遷化するであろう」と告げて周囲を驚かせた。
祝賀会より10日後、体調悪く床に付くことが多くなった。翌年2月3日午前4時危篤に陥り、端座して四句の誓願文を唱えながら入寂した。
2月6日当道場に葬る。塔を瑞応塔と称する。


当山三世峰瑚禅師(関 峰)

師諱は瑚、字は峰、軒号を臥雲と称す。
三河国幡豆郡寺津村の人、姓は天野氏、渡辺華山の甥である。 弘化3年に生まれ、安政4年12歳の降誕会に、遠州篠原海蔵院(現興福寺)の説法和尚について得度した。
16歳、徳源僧堂に掛搭して鰲巓禅師について修行、20年。海蔵院に住して、まもなく瑞応老師の命を受けて、徳源寺副住職に就任した。
明治21年8月たまたま寸暇を得て常滑市大野海岸に遊ぶこと5日、頭痛を感じて帰山し診察を受けた。 同月22日病をおして瑞応老師と市内善昌寺の斎会に臨み、斎会半ばにして書院に下がり床に伏した。
9月29日より病愈重く、遂に脳充血症となり、10月12日午前床上に坐して、
「ああえらい永寝をした、然し今度はしっかり寝るぞ」
と冗談を飛ばし、
「ワシが命まさに数刻にして終わろうとしている、皆あとのことはよろしく頼む」
午後になり衣を改め、端然として入寂した。
塔を称して臥雲塔という。


当山四世実叢定真禅師(関 実叢)

謙光窟と号した。
嘉永4年元旦筑後の国古川の庄杉伴蔵の三男に生まれ、12歳の時、久留米日輪寺九峰和尚について、梅林寺羅山老師により得度。 後、徳源僧堂に掛搭して、瑞応老師の室に入る、苦修20有余年にして瑞応室中を究める。また、梅林寺樹王軒無学老師の室に参じ、再来の称を受く。
明治16年2月3日豊後国養賢寺副住職、同24年徳源寺瑞応軒老師の命によって、徳源僧堂に移る。
同27年養賢寺正住職、徳源寺兼務住職に任ぜられる。同29年本山再住職の職に進み、開堂の式を挙げる。
同36年、妙心寺派管長に就任する。仏心宗空禅師を特授され、37年10月21日、午前5時入寂した。
遺偈に曰く「五十余年住世縁 入驢入馬渡無辺 摘葉花摘葉花矣 各自兄弟好勉旃 喝」と。
11月21日蓬莱山に葬る。塔を称して謙光塔と言う。


当山五世碧松軒老師(関 盧山)

碧松軒と号す。
名古屋に生まれ、11才のとき、土岐笠原溪雲寺仁宝和尚に就いて剃髪受具し、後穆宗和尚が洞泉寺移住にしたがう。
18才、徳源僧堂瑞応軒、のち謙光窟の室に入り、前後20年修行、謙光窟より印記うけた。 時に洞泉寺の本寺、金指実相寺に後継者なく、請われて継嗣となり、次いで奥山再住に出世した。
明治37年、先師謙光窟老師妙心寺管長となり、徳源僧堂に移幢して四衆を接化する。 同41年大本山妙心寺再住職に補せられ、同年4月本山に於いて瑞世開堂の盛典を挙行する。
大釈迦堂、唐門、本門、北門を新築し、又清涼窟と称する貴賓室を新築した。
大正8年、大本山妙心寺管長に就任した。 昭和3年功なり名遂げて、法嗣鳳州老師に一切を嘱して、車道町霞谷菴に隠棲し、昭和19年1月31日遷化する。
蓬莱山徳源寺に埋葬する。塔を碧松塔といい、法を継ぐ主なものに、瑞松軒鳳洲老師、朝熊山金剛証寺翠松軒長縄義龍老師がある。


当山六世瑞松軒老師(古仲鳳洲)

瑞松軒と号す。
秋田男鹿半島に生まれ、同地瑞光寺中山周邦師の養子となる。明治17年妙心寺派管長種縁成就禅師貞山老師に就いて得度した。
周邦師遷化の後、同地常在院萩庭垈洲師に師事し、古仲姓に復帰する。
16歳の時、夜にまぎれて寺をでて、尾張犬山瑞泉寺の妙心寺管長円覚性智禅師樹王軒老師の室に入り、宗旨を参究すると共に、 同教校に於いて仏漢祖録を専攻、その間名古屋市北区如意瑞応寺に隠棲中の貞山老師のもとにいたり指導を受ける。
21才、徳源僧堂謙光窟に参じ、のち碧松軒の室に転じ、住院した東区飯田町禅隆寺より、朝参暮請、遂に碧松軒の印可を受けた。
大正10年、13年本派管長代理として、満洲台湾を巡錫した。大正14年、三重県朝熊岳金剛證寺嘱託住職、昭和2年臨済宗大学学長に就任した。
昭和3年4月盧山老師の命を受けて、徳源僧堂に移幢し、同11月大本山妙心寺に登り、歴住妙心瑞世開堂の盛典を挙行した。
勧請創建両祖報恩の事業として、禅堂を移転し、開山堂霊牌堂を改増築し、方丈を拡張し、外郭に高塀を新設し、 昭和17年5月14日から3日間にわたり、卓洲禅師百年遠諱を厳修した。同年7月本山妙心寺管長に就任した。 また、昭和13年9月13日秋田県昭和町小玉友吉氏の懇請により、太平山開得寺開山となる。
昭和20年3月14日、空襲直前に一宮妙興寺と下呂禅昌寺に什物を疎開し終わる。 まさに間一髪であった。しかし、管長任期途中に徳源寺再建のため、管長職を辞して徳源寺に帰山した。
終戦後発病、昭和21年11月再入院に際し、後事を瑞雲軒萬密老師に託し閑栖となり、翌22年1月21日遷化、塔を瑞松塔という。
法を継ぐ主なものに、瑞雲軒萬密老師、一宮妙興寺妙心寺管長無礙窟杉本全機老師、禅昌寺三木東演老師(管長中代参途中急逝)、禅昌寺箕浦真諦老師などがある。


当山七世瑞雲軒老師

諱は宗香、字を萬密、瑞雲軒と号す。
明治41年8月28日、福井大安寺住職松山萬休の長男に生まれ、大正7年8月15日得度。 花園専修学院卒業後、昭和4年4月徳源僧堂瑞松軒古仲鳳洲老師の室に投じて修行、昭和20年印記を受け、 昭和21年11月20日師の命に依り徳源僧堂に師家に就任した。
 広く浄財を募り昭和27年本堂再建に続き、書院位牌堂などを再建し、昭和55年には庫裡を再建した。
昭和31年妙心寺において歴住開堂の式典を挙行した。昭和57年管長推戴制度が施行され、第1回目管長に推戴された。
同年徳源寺勧請開山卓洲禅師150年遠諱法要を修し、雲衲100名を集め報恩接心を修行した。 昭和60年3月、妙心寺開創650年慶讃並びに雪江禅師550年遠諱を修行した。
また日華仏教文化交流協会会長に就任し、中華民国仏教会との交流をふかめた。
また、台湾の中華民国仏教協会会長釈浄心師は弟子に当る。
昭和61年3月妙心寺派管長の職を辞し徳源寺に帰り、平成2年3月83歳、徳源寺住職の席を江松軒嶺興嶽老師に譲り、徳源寺長養室に隠棲した。
平成15年2月中頃、体の衰えを感じ、今年の夏は迎えられないと告げられた。3月に入ると衰弱が激しく、周囲の勧めにより入院加療、健康を回復した。4月12日、急に不調を訴え、江松軒一人を呼び遺言をして入院。五月に入って急速に老衰が進み、5月6日午後8時26分遷化。世寿96歳、法臘86年である。

密葬を円福寺蒼龍窟老大師の導師により行った。津送は6月16日午前10時30分より、妙心寺派管長究竟窟老大師の秉炬導師、奠茶導師円福寺蒼龍窟老大師、奠湯導師妙興寺孤雲室老大師、新忌斎導師龍沢寺死活庵老大師によってとり行った。徳源寺開山堂下歴代塔に納める。
平成16年5月6日大本山妙心寺において入祖堂式を行う。


当山八世 嶺 興嶽老師

諱は道隆字を興嶽、江松軒と号す。
昭和17年11月20日、養老大通寺住職嶺龍昌の長男に生まれる。
昭和37年9月龍昌に就いて得度。岐阜大学を経て花園大学に進み、昭和40年卒業と同時に、徳源寺瑞雲軒老師の室に参じた。
昭和56年3月その蘊奥を究め尽くし、その印記を受ける。昭和57年3月徳源寺副住職に就任し、萬密老師の管長就任により、雲衲を接得する。
平成2年3月住職に就任し、同年11月晋山式を挙行する。3年5月歴住職に進み本山において歴住開堂を挙行した。
平成10年10月妙用禅師の生誕200年を記念して禅堂の解体修理、侍者寮の改築を行い、併せて報恩摂心会を挙行した。
平成11年4月には中国臨済院の旧跡に記念碑を建立し、落慶法要を行った。 14年還暦を迎え「中国祖跡巡礼の旅」を著す。
15年謙光窟実叢老師の壱百年遠諱を記念して報恩授戒会を行う。平成25年10月開単150年を記念して9の僧堂を拝請して報恩の摂心を開いた。11月には第34代妙心寺派管長に推戴され、翌26年4月1日妙心寺派管長に就任した。