連載徳源寺史
開基織田信雄伝(本能寺の変まで)

信長の正室は斎藤道三の娘で、通称濃姫とよばれたが二人の間に子がなく、尾張の豪族生駒氏の娘を側室として迎えた。名前を吉乃といい、松平信康の正室となる五徳、本能寺の変で戦死する嫡男信忠、二男信雄の二男一女をもうけた。
幼名は信忠が「奇妙」、信雄が「茶筌」といった。信長は子供にユニークな名前をつけることで有名で、三七、坊、次、大洞、小洞、酌、人、長などがある。しかし嫡男の信忠には小さいときから英才教育を施したようである。信長は三男の信孝が二十日あまり早く生まれたが、信雄は嫡男と同じ母から生まれたことから、信雄が二男となった。後に伊勢を平定した信長は信雄を伊勢の名門北畠氏の養子となし、信孝は神戸家の養子とした。天正2年(1574)7月、信雄は長島の一向一揆を攻めて、その功績により従五位下に叙せられ、侍従に任ぜられた。3年(1575)12月には右近衛権中将に任ぜられ、正五位下を経て、従四位下に進んだ。7年(1579)8月伊賀を攻めるが落ちず、8年(1580)9月再び攻めて平定した。天正10年(1582)6月2日本能寺に於いて信長は光秀に殺される。三男信孝は6月13日山崎において秀吉軍の総大将になり父信長の敵を討つことになるが、このあと信雄と信孝の間で諍いが始まる。

老臣、老宿は6月27日清洲城に参集し、柴田勝家は信孝を、秀吉は三法師を後継者に推した。結果は信忠の子供三法師を立てて主とした。信雄、信孝がこれを補佐する事になる。

つづく