清洲会議の結果三法師(秀信)が織田家を相続し、信雄は三法師を補佐し清洲城を居城として尾張・伊賀・南伊勢100万石を領した。そのこと北畠から織田姓に復した。清洲会議で勝家は養子の柴田勝豊に長浜城を秀吉から譲らせ、北陸への防波堤とする事に成功する。しかし、冬を待って12月2日秀吉は長浜城を攻撃し、柴田勝豊を降した。勝家は北陸の雪という大敵に阻まれ自由に動く事が出来ず、長浜を失ってしまう。更に、秀吉は柴田氏の後方にある上杉景勝と結び、同盟者の信孝の周囲にある稲葉一鉄も秀吉に接近するなど不利となっていった。勝家は四国の長宗部、伊勢の雑賀衆と結び織田家の真の後継者を決める戦が迫っていた。

12月20日、信雄は岐阜城の織田信孝を攻めて降伏させた。

正月、勝家に与する伊勢の滝川一益は挙兵し、峯城、亀山城を落とすが、2月になると京を発した秀吉は、峯城・亀山城と一益の本拠地長島城を攻撃し、亀山城は3月3日開城した。

一方、勝家はついに2月末、雪をかきわけ近江に向けて出陣し、3月12日前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢で近江の柳ヶ瀬に布陣した。

秀吉も直ちに出兵し、3月19日には5万兵力を率いて木ノ本(伊香郡木之本町)に布陣膠着状態となる。

4月16日一時秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵の知らせを聞き、翌4月27日美濃に進軍したが、揖斐川の氾濫にあい大垣城に入った。4月19日これを好機と見た勝家は佐久間盛政に大岩山砦を攻撃させた。中川清秀は戦死、高山右近は退却し大敗した。勝家は盛政に撤退の命令を下したが、盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。

4月20日、大垣城にいた秀吉は大敗を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は52kmを僅か5時間で移動した。翌日の未明に秀吉らの大軍が勝家軍に襲いかかった。ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため勝家の軍勢は総崩れとなり、越前・北ノ庄城に退却し柴田勝家は滅びた。

その後、信雄は秀吉と対立し、徳川家康と同盟を結ぶ。天正12年秀吉に内通したと疑い家老3人を殺害し秀吉との対立は決定的となった。3月13日池田恒興が犬山城を奪い秀吉側についた。3月15日徳川軍は小牧に布陣しにらみ合いとなった。3月27日犬山城に入り、4月7日には楽田に進出した。

4月9日羽柴秀次を総大将に2万の軍勢で、家康の本拠地岡崎を攻める計画を実行した。これに気付いた家康軍はこの軍を長久手で破った。池田恒興ら多くの武将を失い秀吉の負け戦となったが、その後は、秀吉に講和が結ばれる。まず、秀吉から信雄に講和を申し込まれ信雄がこれに応じたため、家康に大義名分が無くなったのである。

1583年秀吉が大阪城を築き、織田信雄が父・信長を弔うため、天正13(1585)年に伊勢国大島村(現在の三重県桑名郡長島町)にあった安国寺を清洲に移し、忠嶽如恕を開山に迎え、信長の法号にちなんで總見寺を創建する。

天正18年(1590)小田原の役に功を挙げるが、家康の関東移封によって、家康の旧領への転封を拒絶し改易される。8月入道して常真と号す。文禄元年は(1月22日朝鮮出兵の命が下る。この頃家康の仲介で赦免され秀吉の相伴衆に加えられ秀吉の近くに伺候した。秀吉の御伽衆として著名な者は、武家では足利義昭、織田信雄、織田有楽斎、佐々成政、古田織部、金森長近ら。町人では千利休、今井宗薫、曽呂利新左衛門らが挙げられる。

文禄元年(1592)は織田信長の次男信雄が、熱田に忠嶽(ちゅうがく)和尚を請じて、 徳源寺の前身である宝泉寺を建立したとあるが、寺伝によると、熱田の海国寺で叔栄宗茂についてその法を嗣いだ忠嶽が熱田に庵を結んだのが始まりであると云われる。推測するに、許された信雄は忠嶽に帰依し、忠嶽が一時聖胎長養した庵を正式の寺としたのであろう。後に信雄の死後その宝泉寺に信雄の位牌が安置されたのであろう。

その後、總見寺は慶長15年(1610)名古屋に移転し、寛永7年(1630)焼失したが、藩主徳川義直は財貨を下賜、付家老成瀬正虎に命じて再建に当たらせた。

徳源寺は寛文2年(1662)に昭和区石仏へ移り、「蓬莱山徳源寺」と改称した。
寛保4年(1744)現在の地に移ったとある。信雄は子供多く嫡男の秀雄は越前で四万五千石、元和元年大阪の役終わり、7月23日大和国に五万石に封ぜられる。寛永7年(1630)4月30日京都に歿す73才。この年藤堂高虎も死去し戦国時代のヒーローが消えて行くのである。

總見寺の塔頭は初め12あったが、江戸時代後期には光勝院など三院となる。